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2021.10.25
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第3回ホスピ川柳 入選作品発表

第3回ホスピ川柳 入選作品を発表いたします。
多数のご応募誠にありがとうございました。

■第3回ホスピ川柳 入選作品(雅号:敬称略)

<大賞:1名>(賞金30万円)
ただ母を ただ母と呼ぶ 枕元      夏舟

<次点:1名>(賞金5万円)
ありがとう 確かに母は そう言った   澄海

<佳作:10名>(賞金1万円)

こんなにも 小さかったか 親父の背            月うさぎ

あの母が 気丈な母が 子に戻る                  なおじい

わすれんで 洗濯物の 畳み方                    しいちゃん

ああ母よ 思えば僕の 犠打ばかり               中村龍司

我がままと 知りながら言う「逝かないで」  shin

ふるさとを 忘れふるさと 歌う母               つべる

白衣追い「貴方で良かった」の遺言           たーき

「逝きなさい」 涙で押した 子の背中         みゆ

弱音吐く オレを叱れよ 床の母                 ちはる

もう泣いて いいぞと笑う 親父の目            八木五十八

■選者:高鶴礼子様

■選者総評
これ以上ないと思えるほどの実感を以て綴られた、ひとつひとつの物語に、打たれ、頷き、立ち止まり、ああ、という思いとともに、それぞれの方々が差し出して下さっている思いを何度も何度も抱きしめさせていただきました。良いも悪いもすべてを曝け出し、あの刻の《私》を、そして、たいせつな《そのひと》を、なんとかして刻み置こうと言葉を尋ねる――、みなさんの御句を前にして、これこそが「書く」ということであると、改めて思います。川柳を手にして下さってありがとう、と、心から。出遭わせていただけたこと、幸せでした。

■入選作品への選者コメント

ただ母を ただ母と呼ぶ 枕元 (夏舟)

おお、まさに。「絶唱」というのは、このような語りを指すのではないかと思わせるに足る描出です。横たわる「母」君、そしてそれを見つめる、子である《ここに描かれたひと》。病床を囲んで、たいせつなひとを見つめている《そのひと》/あるいは《そのひとたち》にとって、この懸命な《今》にできることは、それが懸命な《今》であるにもかかわらず、母さん、と、ただ、そう呼びかけることだけでしかないのだ、と――。「母」を「母」と呼ぶ、という極々当たり前のことが、これほどまでに切々たる行為となる、という措定が、母なるそのひとを囲む《そのひと》/《そのひとたち》の心象を、これ以上ないと思えるほどに伝えてくれています。まなざしの先にある、たいせつな、たったひとりのひとの存在。句の焦点を、その一点に定めたことによって、得難い一句となりました。

ありがとう確かに母はそう言った (澄海)

最期の一語が、どのようなものであるのか。それは、そのひとが、どのような生を生き切られたのかということを示す、たいせつなたいせつな発語であると感じます。そして、《ここに描かれたひと》は、母君の遺されたそれを、こんなふうに聞き取られておられるのです。「確かに母はそう言った」と。その述懐が「確かに」という副詞とともに綴られているところに、ああ、母さんは、僕たちに「ありがとう」と言った、確かに、そう言ってくれたんだ……、と、その一言を改めて噛みしめる《そのひと》の心象があふれ来ます。ありがとう、母さん、ありがとうって言ってくれて、ほんとに、ほんとにありがとう、……ああ、でも……、ありがとうって言うのは、母さんじゃなくて、僕たちの方だよ、と、《そのひと》は、湧き起こり来たその思いを噛みしめていらっしゃるに違いありません。川柳は人間諷詠である、ということを確と示して下さっている一句です。謹んで拝させていただきました。

こんなにも 小さかったか 親父の背 (月うさぎ)

子である自分にとって、ずっとずっと仰ぎ見る存在で居続けてくれた父なるそのひと。その父の現在地の、あまりの切なさに息を呑む《ここに描かれたひと》の姿にハッとさせられます。たとえば、立ち上がろうとされるお父君に手を差し伸べたその瞬間の、俯いてじっとされているお父様を何気なく見つめたその時の、一人では着替えられなくなってしまったお父様の着替えを手伝おうとされたその刻の――、こぼれくる幾つもの「ああ……」が、そっと告げにきてくれるのは、父なるそのひとと、子である《ここに描かれたひと》が、父そして子として刻んでこられた、かけがえのない《これまで》の在り様です。形容動詞「こんな」に託して差し出される句頭の語りが下支えとなって、《あふれくる一句》となりました。

あの母が 気丈な母が 子に戻る (なおじい)

「あの母が」、「気丈な母が」と、繰り返し突きつけられる「母」についての語り。この噛みしめるような畳みかけによって、「母」を見つめる《ここに描かれたひと》の裡なる愕然そして呆然が、しっかりと示されることとなりました。なんで……、なんでなんだ、あんなに気丈だった、あの母さんが……と。声にならない絶叫が、紡がれた言葉たちの背後から、そっと聞こえてくるようにさえ、思います。到底、受け容れられない、けれど受け容れるしかない現況というこの相克。それと対峙する《そのひと》の心が、じんと沁みくる造形でした。

わすれんで 洗濯物の畳み方  (しいちゃん)

句頭に置かれた「わすれんで」という岡山弁が、たまらなく効いています。加えて注目すべきは、《ここに描かれたひと》が、「忘れないよ」と、念じておられる対象です。それが、なんと「洗濯物の畳み方」であることによって、切なさの裡にあたたかさが立ち上がりくることとなりました。その情趣によって、この「わすれんで」という一言が、どのような場面で、どのようなひとが、どのようなひとに対して差し出した言葉であるのかが、明らかとなるのです。ほらほら、こうして、手ぬぐいや敷布は端と端を最初に合わせてから畳むと、きれいに畳めるんだよ、と、小さな手で、お手伝いをしようと懸命でいた、いつかの日の《そのひと》に、《そのたいせつなひと》は微笑みながら、教えてくれていたのかもしれません。たった一言の、しかも普段着の言葉に託して語られる《送り》の象(かたち)。哀しみの裡にあってなお、ありがとう、今まで……、見ていてね、ここからは、私なりに頑張って行くからね……、と、涙でいっぱいになりながら、《ここに描かれたそのひと》の心は顔を上げようとしているように思えます。そして、その心象が描出されていることによって、句頭の「忘れんで」が、「洗濯物の畳み方」という措辞を、字義を超えた換喩へとふくらませるのです。教えてくれた事柄が、それを教えてくれたひとの存在そのものを指し示すというこの換喩の奥深さ。親から子へと手渡されるもの、子によって継がれてゆくもの、それらが存在し得ていることの尊さを思います。

ああ母よ 思えば僕の 犠打ばかり (中村龍司)

自分のことは、いつも二の次で、子どものことだけを思って生きてきてくれた「母」。「犠打」という比喩によって、新鮮この上ないかたちで差し出されているのは、その母君のお人となりであり、子である「僕」との関わりの相です。眼目は中七部、「思えば」という展開のさせ方にあると言えましょう。契機を明示するこの書き込みによって、ああ、そういえば「母」はいつも、「僕」のために「犠打ばかり」を打ってくれていた、という措定が、臨場感あふれる説得的なものとなっています。ごめん、ごめんな……、と、幾度そう思ってみても、もはや決して覆せない《これまで》と叶うことのない希いの数々。そしてそれを、じっと抱きしめている「僕」なるそのひと。噛み締めておられる唇の、その震えが見えてきそうです。《「ありがとう」へとふくらみゆく「ごめんなさい」》、そんな造形が果たされているところが魅力でした。

我がままと 知りながら言う「逝かないで」 (shin)

どれほど希っても詮無いことであることは、よーくわかっている、ましてや、それを言ったところで、どうなるものでもないことは重々、承知である……。けれど、それでも……と、心が叫ばないではいられないこのひとこと、それが「我がまま」であることは誰よりもよくわかっていながら、それでも、その「我がまま」を通さないではいられない、そんなひとことを両掌に握りしめて立つ《ここに描かれたそのひと》が、ここには確と存在しています。去来する、ここに至るまでの歳月。目の前に横たわる《たいせつなひと》の懸命な息遣いに耳を凝らす《そのひと》の、その全心から放たれる「逝かないで」を、ぎゅうっと抱きしめさせていただきました。

ふるさとを 忘れふるさと 歌う母 (つべる)

「母」なるそのひとの《今》が説明を一切排したかたちで、しっかりと描出されているところに感じ入ります。「ふるさと」という、日本語としては全く同じ言葉を使いながら、一つ目の「ふるさと」と二つ目の「ふるさと」が指し示すものが異なっていることにお気づきいただけるでしょうか。一つ目の「ふるさと」は「母」なるそのひとの生まれ育った場所を意味する「ふるさと」であるのに対して、二つ目のそれは、「ふるさと」という名のあの唱歌です。自分が、どこで生まれ、どんなふうに育ったかすらも忘れてしまった「母」が、それでも、小さいころ、唄っていた「ふるさと」だけは口ずさめる――。失われてしまった記憶と失われていない記憶との見事な対置が連れてくるのは、切なさの極みとも言うべき「ああ……」の発露です。言語的に同一の語を、その概念を、ほんの少しだけ変えて繰り返し使う、という叙法が頼もしい限りでした。

白衣追い「貴方で良かった」の遺言 (たーき)

最後の最後に、どうしても告げたかったこのひとこと。それが指し示す、ここに至るまでの《そのひと》と《そのひとにそう感じさせて已まない「白衣」のそのひと》とが刻んでこられた、その年月を思います。《そのひと》にとって、《「白衣」のそのひと》は、どんなにか、頼りになる存在で居続けて下さっていたことか――。わざわざ、「追い」かけて行ってまで、そのひとことを伝えないではいられなかった、というこの措定が、ここに描かれた《ありがとう》を無二のものとしています。景に託して思いを語るという造形に、じんと打たれました。

「逝きなさい」 涙で押した 子の背中 (みゆ)

我が子に対して呟かねばならない言葉が、こともあろうに「逝きなさい」であるところに、《ここに描かれたひと》が対峙しておられる状況の、筆舌に尽くしがたいほどの切迫性が伝わり来ます。もう、いいよ、充分だよ、休んでいいんだよ……、おまえは、ほんとにがんばったんだもの……。そう思ってもなお、「逝きなさい」と背を押すことが、親である《そのひと》にとって、どれほど、辛くて哀しみに満ちたものであるかは、言うまでもありません。どういう事情で、なにゆえに、そうした事態となってしまったのかについての説明を一切排して、辿り着かざるを得なかったこの状況のみを切り取ることによって、生まれおちることとなった、ひとつの物語。まさに「慟哭」、そのものの表出でした。

弱音吐くオレを叱れよ床の母 (ちはる)

もう、これ以上、病床にいる母さんを見てなんかいられない、あんまりだよ、辛すぎるよ……。そう思った次の瞬間、《ここに描かれているそのひと》は、自身に対して、こんな言葉を突きつけるのです。ああ、こんなことで、「オレ」は「弱音」を「吐」いてる……、叱ってくれよ、母さん、小さかったころのように、こんな「オレ」を、お願いだから、と。「オレ」という語感が一句の語りを実在感あるものとしていて、たまらなくなってしまいます。傍観の位置からではなく、書こうとすることをグイと自分に引きつけて書く、という句作の基本が見事に体現されている一句であると申し上げていいでしょう。それによって生まれ出た句力の強さが絶大なる魅力でした。

もう泣いていいぞと笑う親父の目 (八木五十八)

作者の紡がれた言葉たちから浮かびくるお父君のお人となり。きっと、「そんなことで泣くんじゃないぞ」と、自身に厳しく、子に厳しい、まっすぐなお方であられたのだと思います。その父君が「もう泣いていいぞ」と、「目」で、「笑」いながら告げておられるという刻下の景。それが、どのような局面のそれであるのか、待ったなしのその《状況》が、ひしひしと迫りくるのを感じます。言葉を発することもできないお父君の「目」が、それでも、これだけは、と、告げようとして下さっているその一言。それを食い入るように見つめては、ああ、あの「親父」が、こんなことを言ってくれている、と、万感をの裡に、それを享けとめる《ここに描かれたひと》の横顔。紛いなき《ほんとう》がここにある、と感じさせてくれる御句でした。


第3回ホスピ川柳 受賞作品

第3回ホスピ川柳 受賞作品

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