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2020.10.26
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第2回ホスピ川柳 入選作品発表

第2回ホスピ川柳 入選作品を発表いたします。
多数のご応募誠にありがとうございました。

■第二回ホスピ川柳 入選作品(雅号:敬称略)

大賞:1名

あの月が見えるか母よ目を開けよ      いーなん

次点:1名

ありがとうあなたに言えた ありがとう   10423

佳作:10名

咳をしても一人になんかさせないぞ     ホスピ樽

肩に乗る手のひら昨日より軽い       すいすい丸

寝たきりの母に「いい子」と撫でられる   ひろ

限りある命同士が笑い合う         好日郎

涙など見せない父の一滴          ハルル

最期まで母貫いた母だった         かきくけ子

あと何度会えるだろうか この笑顔     月うさぎ

激痛に耐える人から「頑張れよ!」     オバンコナース

子の名前忘れた母の背を流す        桃太郎

余命の宣告 でもまだ僕はここにいる    シュンスケ

■選者:高鶴礼子様

■選者総評

お一人お一人が、それぞれに向き合われておられる状況の中で、立ち止まり、見つめ、見つけ出して下さった、ある日ある時ある瞬間の《私》。それを、大勢の皆さんが、ご自身の心を、しっかりと動かして書いて下さっていることが嬉しくてなりません。机上の拵え事ではない言葉たちが湛えくる《ほんとう》を抱きしめさせていただきました。

■入選作品への選者コメント

あの月が見えるか母よ目を開けよ
目を閉じて横たわる「母」に向かって、母よ、逝くな、逝ってくれるな、逝かせるものか、と、縋る絶叫が聴こえます。ためらうことなき直截さを以て、「母」へと、まっすぐに差し出される思いの強さ、透明さ、その臨場感に瞠目しました。「月」という言葉に添えられた連体詞「あの」が、すべての句材を当事者の位置へと、グイと引き寄せてくれていることによって、発されようとする思いが血肉を賭しての吐露へと昇華してゆきます。透徹した月下に立ち尽くすそのひと、そして、そのひとが握り締める一念が、ひしひしと伝わりくる、力に満ちた、得難い造形でした。

ありがとうあなたに言えた ありがとう
ずっとずっと、言えずにいた、そのひとことを、今、こうして、やっと言えた、言うことができた――と。そんな思いを噛みしめるひとの姿が浮かびます。そのひとは、今、どのような状況におられるのか。それを、あえて語らずにおいたことによって、ふくらむ一句となりました。長らくのわだかまりを超えての一瞬であるとも、今、まさに逝こうとしているひとが漏らす最後のひとことであるとも読める語りの、その奥深さに惹かれます。

咳をしても一人になんかさせないぞ
尾崎放哉が、死のわずか二か月前、『層雲』大正十五年二月刊に発表した「咳をしても一人」を踏まえての造形が効いています。放哉が刻み切った、とことんまでの孤独を、そっと差し出した上で、そんな状況には俺が絶対にさせない、と言い切るそのひとの、全身を賭しての思いが、ここには確と息づいています。両の手で大切に享けとめさせていただきました。

肩に乗る手のひら昨日より軽い
歩き出そうとするひとを支えようと、肩を差し出した、その瞬間、ああ、と湧き起こるひとつの感慨。ここに描かれているのは、その一瞬によって突きつけられた気づきです。「手のひら」の重みが語るそのひとの、如何ともし難い衰え。胸中に広がりゆくそのひとへの思いを、「辛い」とか「悲しい」とかいった直截な言葉によってではなく、景に託して語っておられるところが愛おしい限りです。中・下の句跨りのリズムが醸し出す情感に加えて、「昨日より」という、さりげない書き込みが、そのひとを見守るその相を、説明ではない形で言い表わし得ているところにも打たれました。

寝たきりの母に「いい子」と撫でられる
幾つになっても、どのような状況になっても、「母」にとって「「子」は「子」、なのです……よね。「母」を「寝たきりの母」と措定することによって、ここに、ひとつの真理が、たまらなく切ないかたちで示されることとなりました。そっと、「いい子いい子」をする「母」なるひとの掌からは、……ありがとう、私の子に産まれてきてくれて、という呟きまでもが聴こえてくるような気がします。絶品ともいうべき瞬間の切り取りでした。

限りある命同士が笑い合う
「笑い合う」という、あたたかなひとときを共有する私たち、すなわち《笑い合っている者同士》は、《限りある命同士》なのである、と――。作者の果たされた看破の見事さに感じ入ります。「合う」という言葉にある双方向性が句想をふくらませていることに加え、無常を湛えるその発見を、換喩に託して語られたことによって生まれ出た余情が上質の味わいとなりました。

涙など見せない父の一滴
涙など、これまで見せたことのなかった「父」が泣いている――。差し出されるひとつの物語に、思わず、ハッとさせられます。ほろり伝いくる、そのひとしずくに焦点を定めた叙法から沁みてくるのは、「父」なるそのひとが眼前に捉えておられる状況の切なさ、重さです。どんな困難に際しても、全身を張って懸命を絞り、動じることのなかったそのひとが泣く――。何が父君をして、そう為さしめるのか、それについては、あえて明らかにしないでおいて、今、ここ、この瞬間の父君のお姿のみを切り取る、という叙法によって貫かれた語りが秀逸でした。

最期まで母貫いた母だった
出来合いのフレーズに頼ることなく、思いを、ご自身の言葉に託して書き留めていらっしゃるところに惹かれます。「母らしく生きた」ということを現わす、「母」を「貫く」という発想の、なんと、深くて、大きくて、あたたかなことでしょう。「だった」という結語、その過去形が指し示すのは、ここに描かれたひとが見つめる、受け容れるしかないひとつの絶対的な事実の存在です。冒頭の二文字を「最後」ではなく「最期」とした表記が伝えくる、「母」を思うそのひとと、そのひとが思う「母」なるひとが、ふれあい、築き上げてこられた一刻一刻の総体。母と子でいられた日々の豊穣、それが、失われてしまったことに対する愕然、呆然が、そっと沁みくる無二の一句となりました。

あと何度会えるだろうか この笑顔
ほほえみを返してくれるそのひとを前にして、こみ上げてくるひとつの思いが見えます。諦観と背中合わせのようにして萌しくる、なんとかして、生きていてほしい、叶うものなら……、という切実な希い。下五を「この人に」とせずに「この笑顔」とした換喩仕立てが光ります。それによって炙り出された「笑顔」を浮かべるそのひとと、「笑顔」という語の字義が示す明るさとは真逆の方向へとふくらみゆく句想の、切なすぎるほどの乖離には、言うべき言葉さえも見つかりません。浮かびくるひとつの物語が孕む、動かしようのない事実の持つ重みに、じんと打たれました。

激痛に耐える人から「頑張れよ!」
なんというエールでしょう。まさに、捨身飼虎とでも言うべき一言です。ここに描かれているのは、一朝一夕には生まれ得ない、ひとと、ひととの関わりの相。それを発したひとと、それを受け止めたひとが、こうしたひとことを交わし得るに至るまでに、大切に、そして真摯に分かち合ってこられたものの深さ、確かさを思います。

子の名前忘れた母の背を流す
決して忘れるはずのない我が子の名をも忘れてしまうという、かの病変の切なさ、凄まじさ。淡々とした語りの裡に記されているのは、そうした病を得てしまった「母」と、その「母」を看る「子」の姿です。「子」が「母」の「背を流す」という具象に託して語られる「母」と「子」の現在地。自分とわかってもらえなくても、それでも「母の背を流」し続ける「子」の、葛藤と諦念そして祈りが交錯する心象が痛いほど、沁みてきます。

余命の宣告 でもまだ僕はここにいる
「余命」を告げられるということの衝撃。それを、こんなふうに受けとめ得るひとが存在し得ている、ということに、ただただ感動、です。「僕」なるひとをして、「でもまだ僕はここにいる」と呟かせる意識の強靭さ。しかも、それが穏やかな自然体の裡に発されているところに感じ入りました。どうか、これからも、ご自身の現在地を刻み続けていらして下さい。その刻印は、作者ご自身にとっての「自分史」となると同時に、同時代の、そしてのちの世のひとびとにとっての、共有され、再発見されては、他者をも励まし、奮い立たせ、立ち上がらせることのできる標(しるべ)となってゆくものです。死を必定とする人間という生き物。そしてそれに属する私たち。「まだここにいる僕」であるからこそ、できる《もの》や《こと》がある――と、この句の言葉たちが告げてくれているように思います。

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