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お知らせ詳細
第5回ホスピ川柳 入選作品発表
第5回ホスピ川柳にたくさんのご応募をありがとうございました。
選者の先生による厳正な審査の結果決定した、入選作品および雅号を発表致します。
入賞された方へは、弊社より個別にメールにてご連絡差し上げます。
【表彰式のご案内】
2023年11月1日 AM10:00~10:30(予定)
第5回ホスピ川柳 表彰式をオンライン(Zoom)にて開催いたします。
→参加お申込みフォームはこちら(入選者でない方もご参加いただけます)。
★受賞作品は、全国の医療・介護施設に配布される「名優カレンダー2024」に掲載されます。
→カレンダーをご希望の方は、こちらからお申し込みいただけます。
【選者】
《大賞・準賞・佳作》高鶴礼子 先生
《名優賞》株式会社名優スタッフによる投票にて選出
【総評】(高鶴礼子 先生)
おひとりおひとりの方々が、そのお心の裡に、確と噛みしめて下さっているたいせつな思い――。刻まれてある物語の、掛け替えのない深さ、切なさ、あたたかさに、心をぎゅうっと捕まれる思いでした。目の前に突きつけられてある、それぞれの状況に対して、ゆさぶられ続ける《私》という在り様。みなさんが、そこから、決して目を逸らすことなく、それを、なんとかして、ここに刻もうとして下さっていることが伝わり来て、その尊い懸命に、じんとなってしまいました。こんなふうに格闘していただけて、川柳という文芸も、きっと、歓んでくれていることと思います。ありがとうございます、と、心から――。これからも、どうか、みなさんの《生きる》を、川柳に刻んでいってやってください。刻もう、と格闘して下さることによって、みなさんの《生きる》は更に豊かなものとなってゆくと、信じて已みません。
【入選作品へのコメント】
《大賞》
「とうちゃん」と呼ばせて 生まれ変わっても 〔 わらび 〕
淡々とした口調の下、トビキリの自然体に乗せて差し出される思いの、その衒いのない率直さに、思わず、立ち止まってしまいます。「父」でもなく、「父さん」でもなく、「親父」でもなければ、「父上」でもない、《ここに描かれたひと》が大切なそのひとを呼ぶ言葉は「とうちゃん」なのです。そうして、「とうちゃん」と呼びかける《ここに描かれたそのひと》は、「とうちゃん」なるそのひとに対しての思いを、こんなふうに吐露し続けておられます。「とうちゃん」と呼ばせてほしい、これからも、ずっと、たとえ、私が、そして「とうちゃん」が、生まれ変わったとしても、と――。「とうちゃん」が「とうちゃん」であり、その「とうちゃん」の子が「とうちゃん」の子であるという《今生》という時空間。そこでの《生きる》が終わりを告げて、次の世へと生まれゆく事態となってさえも、私にとっての「とうちゃん」は「とうちゃん」だ、「とうちゃん」しかいない――。《ここに描かれたひと》が、そんな思いを、一心に抱きしめておられるということが、《ここに描かれたひと》が、今、眼前に捉えておられる事態の、辛さ、哀しさ、如何ともし難さを確と炙り出してくれています。《ここに描かれたそのひと》が「とうちゃん」と呼び、「とうちゃん」と慕い続けてこられた《そのひと》は、おそらくは、つい今し方、今生を出立されてしまわれたに違いありません。とうちゃんが、私のとうちゃんが、逝ってしまった――、ああ、嘘だ、嘘であってほしい、……でも、ここに目を閉じて横たわっているのは紛れもなき「とうちゃん」だ……、でも、ああ、だめだ、こんなこと、到底、受け止められない――。ぐるぐると回り続ける詮無い思いに涙でグショグショになりながら、《ここに描かれたそのひと》は、一つの思いを、そおっと手繰り寄せるのです。とうちゃん……、とうちゃんは、何がどうなっても、とうちゃんなんだよね、とうちゃんは、ずーっと、何があっても、私のとうちゃんでいてくれるんだよね。……だったら、ううん、だから。次の世でも、とうちゃん、お願い、とうちゃんは私のとうちゃんに生まれてきて下さい、そして私をとうちゃんの子に生まれさせて下さい、と――。静かに語られる「とうちゃん」の子としての《ここに描かれたひと》の一途。後生であり、前生であるところの、世を跨いでの「とうちゃん」との邂逅を希い続ける《ここに描かれたひと》の心象。生まれ変わってさえも、なお、と念じる発想に、たまらない共感、そして愛おしさが込み上げてきてなりませんでした。
《準賞》
約束が違うぞ 父よ なぜ急ぐ 〔 かばくんのかば 〕
唐突に突きつけられたひとつの愕然を前にして、立ち竦んでおられる《ここに描かれたひと》。父さん、「なぜ」そんなに「急ぐ」んだよ、……ダメだよ、そんなの、「約束が違う」じゃないか、と、絶叫しまくる心を、ぎゅうぅぅっと抱きしめて、ただ、じっと、じっと父君を見つめる《ここに描かれたひと》の姿が沁み来ます。「約束が違うぞ」という、談判とも言うべき衣を纏った言葉を、句頭に据えて差し出される語りが湛え居る思いの、その真っすぐさ、強靭さによって、一句の裡に、代替不可の、得難い物語が宿ることとなりました。聴こえくるのは、逝くな、逝くな、父さん、逝かないでくれ、一生のお願いだ、という《ここに描かれたひと》の心の叫びです。語り口調の強固さが、《ここに描かれたそのひと》が全身に負うこととなった慟哭の深さを、これでもか、というほどに刻んでくれているところに、たまらなく惹かれました。なんでなんだよ……、父さん、急ぐな、お願いだ、引き返してくれ、という、ギリギリのところで発された絶叫の、深さ、重さ、そして得難さを思います。ご自身の中の《私》をしっかりと見つめた上で、《書く》を果たして下さった作者。心からのありがとうを捧げさせて下さい。
《佳作》
心配をするなと母が無理を言う 〔 彗星 〕
見るからに衰えてしまった母なるそのひとを前にして、そんな母君を案じる気持ちでいっぱいになっておられる《ここに描かれたひと》。大丈夫なのだろうか……、ほんとうに、これでいいのだろうか、何か、他にもっとできることはないのだろうか、と――。《ここに描かれたひと》の裡にあふれくる、そんな困惑と切なさを前にして、母なるそのひとは、途切れ途切れに、こうつぶやかれるのです、「心配…なんて、しないで……ね」と――。大事な大事な我が子に、辛い思いをさせたくないと念じる母としての懸命ゆえの一心。そして、それを享けて、《ここに描かれたひと》の心にあふれくる一つの思い。ここに描かれているのは、そんなやり取りが連れてきてくれた一相です。母さんが、こんな状態でいるのに、心配しないでいる、だなんて、そんなこと、できるわけないじゃないか、そんな「無理」を言ってくれるなよ、俺のことなんか、気にするなよ、気にしなくていいんだよ、と―ー。病床におられる母君、そしてそれを見つめる「子」であるところの《ここに描かれたひと》。その姿を通して、《その子の母》である、ということ、そして《その母の子》である、ということは、どういうことであるのかを、この句は見事に指し示してくれています。今生という縁によって「母」と成り得て「子」と成り得る――、そのことが与えてくれているものの深さ、切なさ、尊さを、改めて心に刻ませていただきました。
不意打ちはずるいよ 父の「ありがとう」 〔 水瓶座 〕
なんで、なんで、なんで、こんな時に言うんだよ、父さん、……「ありがとう」だなんて……、と――。懸命に涙をこらえながら、目の前に横たわる「父」なるそのひとを見つめる《ここに描かれたひと》、その胸中に兆す思いが、紡がれた一語一語から、あふれくるところに感じ入ります。一刻たりとも代替不可の、粗末にできない一瞬が積み重なりゆく――、《ここに描かれたひと》が父君とともに前にしておられる《今、この時》は、そんな刻限であるに違いありません。「父」なるそのひとを、じっと見つめる《ここに描かれたひと》。そのひとの前に、突然、もたらされた、ひとことの衝撃。それを、「不意打ちはずるいよ」、と、まるで日常生活の中で苦笑いしながら発されたかのような言葉に託して語っておられるところが秀逸です。それが照射してくれている《ここに描かれたひと》の愕然と、それが連れてくる哀しみの途方もなさ。「父」なるそのひとが刻まれた《生きる》と、その父君の子として、《ここに描かれたひと》が重ねてこられた《これまで》という、その一刻一刻――。この句が伝え来てくれているのは、そんなすべてを孕む「ありがとう」であり、今まさに尽きようとしてしまっている刻限の中で、その「ありがとう」を差し出し合い、見つめ合っておられる「父」そして「子」であるひとの姿なのです。視座の上質さが産み落としてくれた、得難い吐露に、ただただ、惹かれました。
病んで尚「母」という名の母でした 〔 天乎 〕
おお、なんという母君でいらっしゃることでしょう。病ゆえに、どれほど衰えることとなってしまっていても、ここに描かれた母君は、「母」であることを貫かれておいでの母君なのです。その在り様が、ここに描かれた母君が、ここに至るまでの歳月を、どのように生き、どのように拓いてこられたのかを、静かに物語ってくれているところがなんとも言えなくて、抱きしめたくなってしまいました。「病んで尚」の「尚」という、この副詞が、そうした句想を確と下支えしているところが眼目です。加えて「『母』という名の母でした」と、結句が過去形で記されているところに、たまらない切なさが宿り来ます。ご自身の《生きる》を貫いてこられた《ここに描かれた母君》は、今はもう、あちらの世へと行ってしまわれているのです。その「母」を、その母君の、母君ならではの生き様を、じっと、じっと噛みしめる《ここに描かれたひと》。ああ、母さんは、とことん、母さんだった……、病んで、倒れて、ズタズタになっても、それでも母さんは母さんを貫いて、生きていてくれていたんだ――、と。「母」君に対するその思いは、そして、《ここに描かれたひと》にとっての、これからを生きるための標(しるべ)となってゆくに違いありません。耐えがたいほどの哀惜とともに、母を思う《そのひと》の胸中に芽生えくる覚悟ともいうべき心情が感じられる語りとなっているところが大いなる魅力でした。
「ハンカチは持ったか」の声 ベッドから 〔 長谷川千流 〕
切迫に切迫を重ねた状況下におられながらも、こんなふうにして、我が子である《ここに描かれたひと》のことを案じておられる《そのひと》の在り様に、ただただ、じんとしてしまいます。これぞ、まさしく、《親である》ということを証する一言であると言っても過言ではありません。そのありがたさを、誰よりも強く、全身に刻みつけるようにして受け止めておられる《ここに描かれたひと》。その心象に兆しくる《ああ……》を思います。自分が、こんなにも大変な状況なのに、こんなになっても、まだ、僕のことを、心配してくれているんだ……。「ハンカチ」の所持・不所持などという、生命の危機と隣り合わせにいる人にとっては、取るに足りないはずの日常茶飯の事柄すらをも、心に留め、大丈夫かい、と語りかけてくれている――、そんな父君・母君の存在を、《ここに描かれたそのひと》は、共に過ごし来た歳月とともに、改めて噛みしめておられるに違いありません。「父」として、「母」として、そして、その「子供」として、出会い得たということの意味そして意義の、この句が刻んでくれているのは、その掛け替えのない一相であると言えましょう。それを「ハンカチ」という具象に託して語っておられるところが、何と言っても手柄です。それによって極上のアクチュアリティーが確と立ち上がり、訴求力に満ちた造形が零れ落ちることとなりました。
逝かないで 他には何も 望まない 〔 ター坊ママ 〕
おお、これぞ、まさしく「絶唱」であると言えましょう。望むものなど、他には何もない、と、《ここに描かれたひと》は言い切っておられるのです。望むのは、たった一つのことだけ、「逝かないで」、ただ、それだけなのだ、と――。《ここに描かれたひと》が眼前に捉えておられる状況が、どれほどまでに切羽詰まったものであるのか、そしてそれを《ここに描かれたそのひと》は、どんな思いで見つめ、どんな思いを以て、それと対峙しようとしておられるのか――。真正面からドンと差し出されてある造形が突きつけるものは、たった一つの、たった一つだけの思い。尋常ならざる切なさを籠めた《お願いだ!》、であるのです。今、まさに、尽きようとされている《たいせつなそのひと》を前にして、こみ上げる思いは、これだ、これしかない、と、読者をして、大きく頷かせるだけの句力が確と刻まれているところが得難い結実であると言えましょう。万言にも勝る一言。それを見つけ出して下さった作者に、心からの賛同と、拍手を送ります。
バカ息子 寄り添うだけが 恩返し 〔 唯人 〕
句頭に置かれた「バカ息子」という措辞が、《ここに描かれたひと》が、今、眼前に見据えるそのひと自身の在り様、そして、その心の現在地を、これでもか! というほど、強く、激しく語ってくれているところにハッとさせられます。俺は、俺は、ほんとに「バカ息子」だった……、「バカ息子」でしかなかった、あんなに、よくしてもらったのに……、あんなにやさしく育ててもらったのに……。なんにもできないまま、とうとう、こんなことになってしまって、……今は、もう、こうやって見てるだけ、それだけしかできないだなんて……。何やってんだ、俺は、なんて親不孝な「バカ息子」なんだ……、と――。せめて、せめて、せめて、こうして病床の横に居続けること、じっと横たわる《たいせつなそのひと》に「寄り添う」ことだけが、俺にできる「恩返し」なんだと思ってみても、《そのひと》の裡に沸き起こる悔いと自身への不甲斐なさは消えていってはくれないのです。でも、でも、でも――。見続けていよう、母さん、母さんの「バカ息子」は、ここで、こうして、母さんのこと、ずっと、ずーっと、見てるよ、見守っているよ、だから……ね、お願い、お願いだよ……母さん。必死で母君を見続けるまなざしの底から、そんなつぶやきが聴こえてきそうです。ここに描かれているのは「バカ息子」だと自身に引導を渡した《そのひと》が辿り着いた、《母なるひと》に捧げる正真正銘の《ひと》としての《ほんとう》。自身の非すらをも曝け出すことを厭わない、というのが川柳の伝える《吐く》という基本姿勢なのですが、ここにはそれが確と担保されています。嬉しく、頼もしく、立ち止まらさせていただきました。
いま父が昇って逝きました 空よ 〔 まちこ 〕
大切に見守って来られた父君を送られた直後の、言い得ないほどの悲しみや悔い、そして切なさで、ちぎれそうになりながら、《ここに描かれたひと》は、「空」を見上げて、否、「空」に向かって、こんなふうに語りかけておられるのです、「空」さん、ああ、「いま」、「逝きました」よ、「父」は、あなたのところへと――、と。自身に言い聞かせるかの様にして、静かに発されるそのつぶやき。一読して、そこに託された《ここに描かれたひと》の切なる希いが、記されてある一語一語の背後から聴こえてくるような、そんな思いに駆られてなりませんでした。
「いま父が昇って逝きました」、ああ、だから――。「空」さん、お願いです。どうか、どうか、父のこと、見ててやって下さい、慣れない場所に行って、きっと、戸惑うこともいっぱいあるかと思うのです、だから、どうか、「空」さん、もしも、もしも、父をお見かけ下さいました折には、そちらの世界のこと、いろいろと教えてやってはいただけないでしょうか。そうすれば、きっと、父も安心して、過ごすことができると思うのです。「父」は、まっすぐに、「父」であることを生き切ってくれました。私は、そんな「父」の「子」として生まれ得たことを、心底、幸せに思っています。だから――。どうか、どうか、お願いします。私の父に生まれてくれた「父」が、安心して、そちらの世でも過ごせる様に、父を見ていてやって下さい、切なるお願いです、と――。差し出されてある措辞の、その、とてつもなく澄み切った情趣が、《ここに描かれたひと》が果たされた父君との《これまで》、掛け替えのない父君との関わりの在り様を、これ以上ないほどのあたたかみを携えて、静かに物語ってくれています。遂に訪れてしまった父君のご逝去というとてつもなき事態。それを、じっと噛みしめて、受け入れ、静かに抱きしめておられる《ここに描かれたそのひと》。この句が果たしておられるのは、《やさしさ》の、これ以上ないほどの具現化です。こんなふうに受け止めて下さる《ここに描かれたひと》のような方を我が子とし得て、《父君なるそのひと》は、どんなにか、お幸せに思っておられることでしょう。心情の交換、そしてそれによる関わりの醸成がもたらす得難い尊さを、確と示して下さったすばらしい描出でした。
最期までやさしい嘘を母はつく 〔 ちく 〕
息も絶え絶えになっている「母」なるそのひとが、それでも「子」であるところの自分たちを心配させるまいとして語る言葉の、それが語られる端々から、すぐに「嘘」であると、わかることの切なさ。それを全景として語られる心象が指し示す、「母」を思う「子」の、その思いの深さ、切なさ、あたたかさに、思わず、涙が出そうになってしまいました。「大丈夫……よ」と、懸命を携えて動く母のくちびるが、何よりもはっきりと告げているのは、《大丈夫では、決して、ない》、という母君の置かれた切ない現況なのです。ああ、母さん、母さんは、この期に及んでも、また、嘘をついてる、嘘をついてくれている……、私たちのことを思って、無理してくれてるんだね……、なんで、そんなにまで、やさしいんだよ、母さんは。やさしすぎるよ、こんな最期の最期まで……、と――。そんな思いを噛みしめる《ここに描かれたひと》の慟哭が迫り来て、たまらなくなってしまいます。「母」のつく「嘘」は「やさしい嘘」である、と――。そして、それは「最期まで」続いていくのである、と――。「さいご」という言葉の表記が「最後」ではなく「最期」と記されているところに、万感の思いが籠り来ます。やがて、目の前に差し出されることになってしまうであろう「母」君の「最期」というその刻を、ただただ、見つめいる《ここに描かれたひと》。その心が噛みしめる《ああ……》を、大切に大切に受け留めさせていただきました。
じっと見る 目が言っている 頼んだぞ 〔 無色 〕
この句から沁みくるものは、他のなにものでもない、しんと告げられてある不二の《覚悟》であると、言えましょう。今、眼前にあるこの一刻が、今生の別れとなることを、《ここに描かれたひと》は、噛みしめ、それを全身で受け止めようとなさっておられるのです。不要な説明を一切排したことによって、その「別れ」が幾重にも解せるものとなっていることにお気づきいただけるでしょうか。その別れが、生死の境目に置かれた別れであるとも、生き別れとなる別離の瞬間であるとも、両方向に読めるところが、この句の深さを弥増ししています。加えて、ここに描かれている事柄が、どのような関わりを持つ人々の間に展開されている事態であるのか、それについても、あえて明示されていないことによって、この句の語りは、いっそう、ふくらむこととなりました。生死の別れであると解せば、「頼んだぞ」として差し出されるそのまなざしは、死にゆく床にいるたいせつなひとのまなざしであると言えましょう。言葉を口にすることすらできなくなってしまったそのひとは、自分を見つめてくれているひとたちに、そっと、その目を見つめ返すことによって、語り掛けているのです。そして、それを見たそのひとたちは、瞬時にその思いを悟るのです。ああ、「目が言っている」、「頼んだぞ」、あとのことは、と、そう言ってくれている、と――。今生の中での別れであると解せば、大切な仲間たちに後を託して出立しなければならなくなった、志に満ちたそのひとの、同志を前にしたまなざしが浮かび来ることとなりましょう。いずれに解しても、「頼んだぞ」が無言の願であるところに、たまらない訴求力が建ち上がりくることとなりました。映像における無音、絵画や詩における余白と同様に、作者が刻んで下さったこの無言が、極めつけの余韻を一句に付してくれているのです。たった十七モーラの中に一本の映画に勝るとも劣らない感動、そして紛れもなき「詩」が存在し得ていることに感じ入ります。この調子で、と、心から。
《名優賞》
泣かないで 先に呼ばれただけだから 〔 ちんぐ 〕
(名優賞選評:株式会社名優 代表取締役 山根貫志)
死を忌むべきものととらえ、何とか避けようと必死になるこのご時世。
柔らかな言葉の並びながら、生前どんな人生を歩もうとも最後に行く場所は同じ、人は必ず死を迎える、その時が来ただけ。と、すっきりと、あたりまえに死を受け止めようとする姿勢に共感を覚えました。
死という帰結のある、限りある人生だからこそ、日々をしっかりと大切に生き抜かなければと思わされます。
《ご紹介》